孤独な弧度法

ブログのタイトルは完全に語感だけで決めました。そこそこ良いブログ名だと自分では思っています。

本当に死にたいのか????????

死にたい



この言葉ほど、ついつい口にしてしまう割に重い意味合いを持った言葉はないでしょう。
私自身も何度となく口に出したことはあります(最近は意図して言わないようにしていますが)。

ほとんどの人が、生まれてきてから今現在に至るまで1回は死にたいと口に出したことがあるのではないでしょうか?
しかしながら、死にたいと言う人の中で、本当の意味で自殺を考えたことがある人はどれくらいの割合でいるのでしょうか?





苦境にぶち当たった人が死にたいという言葉を口に出す時、その『死』は、本物の死と言うよりかは現世からの消失を意味している気がします。
普段辛そうじゃない人が死にたいと咄嗟に言ってしまう状況として、責任のある仕事が降り掛かってきたりどうしようもなく自分が惨めに感じてしまったり或いはとてつもない恥ずかしい思いをした時などが挙げられると思います。
死して生命活動を停止したいという具体的な願望が溢れ出たというよりは、ただただその場から消え去ってあらゆる責任や他人からの関心を全てなかったことにしたい、断ち切りたいという意味で死にたいと言っているのではないかと。要するに誰からも意に介されないことによる自己の存在の抹消を臨んでいるのではないかと。

肉体的な死という概念は誰もが避けられない現象で常に私たちの人生に寄り添っているはずなのに、普段は影を潜めているから無意識のうちに『死にたい』という言葉を使ってしまいがちです。

しかし、死にたいと言ったあとにふと冷静になって振り返ってみると、死には少なからず苦痛が伴う上に手段として使うにはあまりにもリスキーであることを重く痛感します。
『死にたい』という言葉を口に出すことによって、初めて死という物の存在を再認識するのです。そして別に死にたい訳ではないなぁ、と気付かされたりするわけです。

死にたいという言葉が現実でもインターネットでも蔓延しているのは、己が『死』の定義を今一度見つめ直すためなのかもしれません。
そして死の持つ意味と自身の心境がマッチングしてしまったら……………………そう思うと、やはり死にたいという前に待てよ、本当に死にたいのか?と1歩退いて考えることが大事かもしれません。


私自身は死にたいと思うような無理難題がうじゃうじゃ降りかかる世の中で、死の持つ意味を考え直してみることが「死にたい」と思える状況を覆す糸口を見つける一つの冴えたやり方ではないかと思っています。確証はありませんが。