ある日のこと。
大阪で用事があり、街をぶらぶら歩いていると、ストリートミュージシャンの歌声が聞こえてきた。
……ゆずの『栄光の架橋』だ。
遠方に目をやると、道の端っこでギターを片手に大声で熱唱している男性の姿が小さく見える。
それ自体はよくある事だ。
人が集まるところには必ずストリートミュージシャンがいて、必ず人の曲を許可もなくカバーしている。私はさして気にもとめず大阪の混みごみした道をそのまま歩き続けていた。
男性の歌自体は特別上手くもなかったが、路上で弾き語りをしているくらいだからか別に下手というわけでもなかった。
ただ1点気になったのが、その男性の歌声に全く『伸び』がなかったことだ。息が切れているのか、プツリプツリと張り上げた歌声が伸びずに切れている。
近づいていくにつれて、理由がわかった。
ギターを手に声を張り上げて必死にゆずを歌う男性は、ジジイだったのだ。
ジジイと言ってもまったくのヨボヨボのじいさんというわけではない。ただ明らかにおっさんとじいさんの間くらいの見た目で、ストリートミュージシャンから連想される年齢を間違いなく大幅に逸脱している。
遠くから見た時に明るい金髪に見えた明るい髪は、真っ白に色素が抜け落ちた天然ブリーチの白髪だった。50歳は多分過ぎていると思うし、少なくとも北川悠仁よりかは歳上そうだ。
ストリートミュージシャンの年齢がオリジナルのアーティストの年齢を超えることって、あるのか。
そんな初老を超えていそうな男性が、春が近づいているとはいえまだまだ寒い冬の夜空の下、月明かりに照らされて、声を張り上げてゆずの『栄光の架橋』を歌っている。
いくつもの日々を超えて、たどり着いた今がある________
の、『今』がこの状況である。
ハッキリ言って、深みが違う。
北川悠仁の年齢では、境遇ではこの深みは出せない。
これはもはや、ゆずのオリジナルの栄光の架け橋をある意味超えてしまったと言っても過言ではないかもしれない。
私は、表情にこそ出さなかったが栄光の架橋を熱唱するその男性に心の中で最大級の割れんばかりの拍手を送った。
大阪の街をせかせかと歩く人々は熱唱する男性を一瞥し、ふと嘲笑したかのような顔をして、すぐに何事も無かったかのように通り過ぎていく。生き急いでいる彼らの心の隙間には、男性の短い途切れ途切れの栄光の架橋は架からない。
私は実際に行動に移しこそしなかったが100円くらいは投げ入れるくらいの気持ちで、男性の目の前を通り過ぎがてら、開かれたギターケースの中をチラリと覗いた。
小銭は一銭も入っていなかった。
私は夜の寒さを味わうかのようにフーッと息を吐きながら、男性の顔を一瞥した。
ビー玉のようにまん丸で真っ黒な、少年のような瞳だった。
ただ、やはりどう見てもゆずの北川悠仁より歳上の、本当にただの白髪のおじさんだった。
……このおじさんは、いつから此処で『栄光の架橋』を歌っているんだろうか?
一瞬浮かび上がった疑問を振り払い、私は何事もなかったかのように、ストリートミュージシャンの男性を通り過ぎた。
背後から、ストリートミュージシャンの男性の歌声が聞こえてくる。
だからもうっ
迷わずにっ、進めばいいっ
栄光のっ!架橋へとっ!
男性の栄光の架橋は、私の心には架からなかった。