孤独な弧度法

ブログのタイトルは完全に語感だけで決めました。そこそこ良いブログ名だと自分では思っています。

コロナが俺を裸にする

コロナウイルスが日本に蔓延してからもう何ヶ月経つのだろうか。連日感染者数が増えて、『いつも通り』がままならない世の中になっている。

 

4月に会社に入社してから、7月の連休に帰省するまで自分の県から1歩も出ない日々が続いた。同じ部署に同僚はおらず、また、新人研修などもだいぶ有耶無耶になったため会社内の同期などと遊ぶ……などということもしていない。

ほぼずっと、家にいた。

そしてそれは今もそうである。

 

 

コロナウイルスには感染症としての恐怖だけでなく、もしかしたらもっと恐ろしい影響が存在すると思う。

 

 

それは、社会の中での、人とのネットワークの中での、自分の価値が剥き出しになってしまうことである。

『価値』というのは、つまり自分がどれだけ他人に必要されているだとか、一緒にいて欲しいと思われているかだとか、そういった評価のことを言っている。

 

コロナが蔓延する前には、一応の繋がりとしての飲み会やちょっとした遊びなどがあったが、コロナの影響でそれらの機会は非常に減ってしまった。

その中でも、人と人との繋がりはあって、リモート飲み会なるものをやったり或いはコロナが落ち着いてきたタイミングで対策をとりつつ遊んだりするだろう。

 

 

そこで自分自身について振り返ってみると、ほぼそういうイベントに参加することがなかった。ゼロではないが、参加したリモート飲み会や対面は全部『自分から向こうにアポイントメントを取ったもの』だからだ。

 

つまりコロナの影響によって、我々はお互いに振るいにかけられている。

そして自分自身の他人からの評価が全て剥き出しになって、振るいにかけられた結果網の目に引っかかることなく落とされていく。『あいつはいいや』と切られる人間であることが明るみに出る。

 

そしてその一方で、自分も他人を無意識のうちに振るいをかけているのかもしれない。

 

関わりがあった色々な人に『リモート飲み会しようや!』『連休帰省するから飲もうや!』と声をかけることはできたはずだ。

だが、実際はほとんど声をかけておらず、声をかけるところまで至ったのは「この先も繋がりを保ちたい」という人だけだった気がする。

 

自分から見て一応コミュニティには属しているけど、『自分の存在価値が薄いな』という集団には声をかけることができない。多分断られて変な空気になってしまうだろうし、自分自身もそこまでして繋がりたいわけではないから。

 

 

ほぼ家にいて、本を読んだり、勉強したり、転職について考えたり、色々考える中で『自分自身のあり方』について考えなくてはいけないことに気づく。

コロナのせいで、普段なら目を向けなくても誤魔化し続けられた『裸の自分』が否応なしに目に入ってくるのだ。その醜さと弱さたるや、なかなか直視できるものではないが目を向けざるを得ないというか。

 

こういうことをコロナの中でもたくさんの人々とやり取りをして、繋がり続けている社会的に魅力的な人たちは考えたりするのだろうか。いや、彼らはこういう状況下だからこそ繋がろうとするのかもしれない。

 

この環境は恐らくこれからしばらく続くだろうし、終わったあとに社会がどうなっているかはわからない。だが、まずは目の前のことに集中すべきだろう。

 

この状況下で改めて、『自分が繋がりを保ちたいと思う人たちには自分からコンタクトをとる』ということと、『向こうから必要とされているのならその要求には応えたい』ということが身に染みて実感できた。

当たり前のことだが、ここら辺をしっかりしてこなかった人間はコロナで自分自身を形成するネットワークの脆弱性で苦しめられている。私もその1人だ。

 

私にある繋がりといえば、『離れてたって、僕らは繋がっている』みたいなことを言ってるアイドルしかいない。その発言も、ファン全員に向けて発したものであり私はそのうちの一人で、多対一の不釣り合いなコネクションである。繋がっているかもしれないが、1本1本の繋がりの線は髪の毛よりも細い。

 

 

剥き出しになった自分と向き合って、セルフプロデュースをしていくしかない。そして、自分の大事だと思う人間を大事にしてかねばならない。

ファッキンコロナの中で、得られた教訓がそれである。

 

 

 

 

というわけで私とお話したい皆さん、お誘いお待ちしています!!!!!!!!!!!!!