孤独な弧度法

ブログのタイトルは完全に語感だけで決めました。そこそこ良いブログ名だと自分では思っています。

自分のことを『優秀』だと思い込んでいた一般大学院生

独白になりますが、見たい人は見てくれれば。

 

 

本年度、なんとか私は修士課程の卒業が確約されました。

学部時代から数えて足掛け6年間、本当にあっという間ですが一日一日は濃く長かったように感じます。

 

特に研究室に入ってからの3年間はそうでした。入る前は向学心が高く、社会の中で名前を残せるような特別な自分になるぞという気負いがあったので色々な研究室に見学に行って熱心に質問をして一番惹かれたところに希望通り入ることができました。

 

研究室に入ると、憧れていた大学院の先輩の後継として研究テーマを与えて頂き、4年生の終わりから学会にも出たりして自信とモチベーションが上がっていっていきました。しかし、本当はこの時点で『待った』をかけるべきだったと今振り返れば思います。

4年生の段階で私が発表した内容はほとんど先輩の実験成果なのです。もちろん私がやった部分もあっての発表であることには間違いないのですが、そのウェイトは半分には到底満たないレベルです。

実験の基礎的な部分の引き継ぎはもちろんして頂いて、その上で先輩の実験の手伝いを行いました。しかしながら、自分自身で何かを実現したかと言うとほとんど何も実現できていませんでした。追実験も成功してないし、シミュレーションによる検証もあまり上手く行っていません。地に足が着いていない状態で大学院に進学した気がしています。

 

 

そして、大学院に進学してからはまずは実験パラメータを最適化する地味で簡単な研究から始めました。これはこれで全く価値のなかったものではないと思っていますが、論文などの形になるタイプの研究ではありませんでした。同じようなプロセスで大量にデータを取っていただけで、そして基本的に先生に言われたことをやっていただけで、自分で意味を考えて実験をしていなかったと思います。

そして、その研究と先輩からのデータを組み合わせてとある学会で賞を取りました。しかしながら、私の研究はその発表では明らかにおまけで、刺身のツマのようなものでした。それでも学会で賞を取れたのは自分が認められた気がして素直に嬉しかったです。この時は自分はやる気があって優秀な部類の人間だから、博士後期課程に進学したいと思っていました。研究が好きだからというより特別優秀な自分が証明出来る気がして。でも、周りにはほとんど言いませんでした。言ったら実行しなくてはならず、そしてそうなって失敗した際の自分の行動に責任を取れる気がしなかったからです。賞を取って、ファーストオーサーで論文が書ける見込みが立ったら(つまりDC1通るのに十分そうな業績が生まれる見込みがたったら)言おうと思っていました。このような受身の心構えからして非常に博士課程を舐めてたわけで、結果として博士課程進学を大っぴらに言わなかったのは正解だったと今では思っています。

 

 

そして、M1の中頃に欲張って自分のテーマとは別に共同研究に手を出しました。これがとても良くなかったです。

仮説を立てて実験を行い、結果から原因を推察して工夫を凝らして新たな実験を行う________そういったプロセスが自分の中で確立していなかったのです。

当然ながら、私の実験は上手く行きませんでした。延べ1ヶ月以上を費やした共同研究での実験のデータからは何も言う事が出来ませんでした。色々な先生に相談して、頑張って何かを出そうとしましたが途中から心が折れてひたすら狂ったように同じような実験を繰り返していたと思います。もっとできる事があっただろうなと今は思いますが、その当時は他にも色々辛いことがあって余計に負のスパイラルに陥っていきました。悪いことは同じ時期に一斉に起こるのが人生というものです。

 

そして、博士進学を一時は考えていましたが、あっさり就活をすることにしました。就職に進路を切り替えた理由は色々ありますが、1番は特別な自分になれる見込みがないなと諦めてしまったのだと思います。1ヶ月ちょっとの実験の失敗で諦めるのは早いと長年研究をしてきた方は思われるのかもしれません。しかしながら、私にとっては共同研究先で1人無為なデータの山を生み出し続けた1ヶ月間は、無力な自分を映し出す鏡のようなもので、心の弱い私には到底直視が出来ないものでした。

 

そして、M2に入ると就活と言い始めて積極的に研究室をサボり始めました。その期間は基本的に最低限のタスク以外はほとんど家で寝ていたと思います。就活もろくに企業を受けないで、大学院生の特権を活かして推薦で内定をもらいました。

そして、卒業に向けて煮詰まっていた研究テーマを変えて新たに始めることにしました。そこで私は、『自分は向いてないと思うしやりたいとは思わないが、今後の研究の発展を考える上で1番価値があるだろう』と思えるテーマを選びました。これがもうひとつの大きな失敗だと思っています。

何をやるにも全く何をしていいか分からなくて、しかも面白いと思えないから、頭を使って考えることを放棄して以前までのプロセスに乗っ取った実験を脳死でやって全く上手く行きませんでした。そしてそれを先生に指摘されても全く改善はできませんでした。実験をするのが苦痛で、とにかくやりたくなくて仕方がありませんでした。この時期は最も態度とかが酷かったと思います。今となっては、1度原点に立ち返って自分のやるテーマをもう一度深く考えて選ぶべきだったと思います。

当然何もデータは出ず実験が進むわけもないので、あえなくもう一度テーマを変えることにしました。そこで私は卒業のために、後輩が既にやってある程度成功していたテーマに近いもので対象をマイナーチェンジした実験を行うことにしました。後輩には本当に心から迷惑をかけたと思っています。私の方がその分野の研究を始めたのは後なのに修士を卒業するのは先だから、外部から見たらあたかも私の研究を後輩が引き継いだかのように思われるからです。後輩に親切に実験などについて教えて貰いつつ、劣等感を飲み込んで私は実験を続けました。どんなに何もかも嫌な気分になっても、私の中の打算的な部分が『修士号は絶対にとっておくべき』と言っていたからです。明らかに大学院入学時と比較してモチベーションがガタ落ちだったので本当に最低限(それにすら届いていないかもしれない)の実験しかせず、ほとんど考察などもしていませんでしたが何とか卒業に至るだけの形にすることはできた……と思っています。そう思いたいだけかもしれませんが。

修士論文を書いていると、私の研究生活の3年間がありありと浮かび上がってきてがらんどうな自分に気づいて辛くなりました。しかしながら、それを飲み込んで何とか書き切って提出することができました。提出し終えた今となっては、シンプルにほっとしています。綺麗な形とは到底言えませんが、何とか自分の3年間にピリオドは打てるなと。

 

 

虚栄から生まれた自分が優秀であるという慢心。そして、自分の本心に従わず、自分で考えることをせず新しくて目立つものにとにかく飛びついて何も自分のものとして消化できなかった。これらが私の3年間の失敗要因だと思います。指導教官にはそういった点を何度も指摘して頂いていましたが、私は真剣にその言葉を取り入れていなかったんだと思います。

 

研究生活には無念が残りまくりですが、指導教官や研究室の環境に一切文句はありません。積極的に学会や共同研究に行かせてもらって、かなり恵まれた生活だったと思います。それ故に周囲からの期待に、それ以上に自分に対する期待に応えられなかったことがなんというか残念です。後輩にもとても迷惑をかけたんじゃないかなと思っています。

 

 

これからは企業に入ってやっていくわけですが、もう一度自分についてしっかり見つめ直す必要があるなと率直に感じています。そして、弱い自分を受け入れられるくらいに強くなれるようにやっていきたいところです。ともあれ、6年間の大学生活と3年間の研究生活は何ものにも変え難い経験でした。この冴えない経験から何かを学びとってもっと良い人生になれるようにしていきたいと思います。私にとって大学での研究生活はたった3年で、これからの社会人生活は数十年続くのですから。