孤独な弧度法

ブログのタイトルは完全に語感だけで決めました。そこそこ良いブログ名だと自分では思っています。

コスパが嫌い、無駄がすき

私が最近よく聞くようになったなと感じる言葉に『コスパ』というものがあります。

意味をサッとググッてみると、

 

コストパフォーマンス(cost performance)の略語。費用対効果。支払った費用(コスト)と、それにより得られた能力(パフォーマンス)を比較したもので、低い費用で高い効果が得られれば「コスパが高い」と表現される。「費用」は金銭だけでなく時間・労力・精神的負担なども含まれ、「パフォーマンス」は、作業なら結果、工業製品なら性能、食べ物なら味、ファッションなら材質・デザイン性、人間関係なら他人から得られるものなど、様々なことに使われる。

 

引用:コトバンクより

https://kotobank.jp/word/%E3%82%B3%E3%82%B9%E3%83%91-671299

 

 

と、あります。直感的に理解しやすく語感もいいので使いたくなる単語ではないかなと思います。

コスパという単語は、こと日常生活においては、かけた時間やお金に対して『得か損か』を示す言葉としてよく使われているイメージがあります。

 

 

例えば、試験が難しくて出席点が少ないから単位を取得するのが難しい講義はコスパが悪いですし、旅行先で観光客向けのレストランなどは質や量の割に値段設定が割高であることが多くてコスパが悪いでしょう。

 

 

このコスパという言葉そのものに対してはスッキリとした意味を持つ言葉なので別に好きも嫌いもないのですが、コスパという指標を持て囃す風潮に関しては明確に嫌いです。

 

コスパ』という単語をよく使う人(あなたの周りにもいませんか?)は無駄を敬遠してとにかく最短経路、最適解を求めたがる傾向にあります。

コスパという単語そのものがそもそも無駄とは対極にある言葉なのでこれは当然といえば当然でしょう。

 

しかしながら、私個人としては何事においても無駄を経験するべきだと考えているため、あんまりコスパコスパ言うてる人を見るとちょっとイラッときます。

なぜ無駄を経験すべきだと思うのかと言うと、『無駄なことを沢山経験している人の方が明らかに人間として面白い』と思っているからです。

 

アニメ、漫画、ラノベ、ゲーム、アイドルとサブカルチャーをだいたい手を出してきた自分の身の上を踏まえて考えてみると、経験上所謂『名作』しか見てこなかった人の話はめちゃくちゃ薄っぺらいです。作品の面白いところを語らせた時に、色々なものを見てきた人の感想にはその人のパーソナリティというか独自の視点・評価基準が出来上がっていてとても面白いです。他方で名作だけをサクサク追いかけてきた人は『〇〇が面白かった』で済ませてしまいがちな気がします。確かに面白かったんだけど、ちょっとそれでは寂しい気がします。

映像作品だと最近はNetflixなりAmazonプライムで様々な作品が見まくれるのでとにかく『名作』と呼ばれるものを見まくってしまいがちですしそれは自然なことだと思います。ていうか私もそうしてます。面白くない作品見て時間を無駄にしたくない!っていう気持ちは誰にでもあるから仕方ないものです。

でも、絶妙に面白くない微妙な作品やもっと言えば駄作と呼ばれる作品を見た後に「こここうしたら良かったのに」とか「この部分全然納得できない」とか色々不満を持ったりするその過程で自分の中の価値基準が発現していくのではないかと考えています。

 

 

『なるほど、確かに玉石混交な様々な作品に触れることによって評価基準が生成されるのは分かった。でもわざわざ地雷とわかっているのを踏み抜きたくないだろ』

 

ごもっともです。

過去にあったあらゆる作品や物事については既にある程度評価がされている訳で、わざわざ見る価値がないと烙印を押されているものを価値観の形成とやらの為に渋々見るのは物好き以外はやらないでしょう。

ですが、最新の現在進行形で進んでいるモノは未だに評価が確定していません。漫画やアニメやアイドル、なんだってそうです。今新しく出され続けているものが良いか悪いかはこれからわかる事なのです。

 

 

 

故に、私たちが何か自分の趣味だったり仕事だったりに関して薄っぺらいと思われないような一定の評価軸を形成するためには最新のものをとにかくキャッチアップし続けることが大事だと思います。

そして今自分に無駄だと感じている物事があるのならば、どの部分に無駄を感じるのかしっかり言語化した方がいいと思います。

無駄を経験してしっかり何らかの形で消化することによって私たちは少しだけ『コスパ』のいい選択ができるようになる、そう私は考えています。

 

 

 

それっぽい様な例を加えると、例えば今流行りのディープラーニングを使って機械に猫の画像とそれ以外を識別させようと思ったら、大量の画像データが必要なわけです。大量に猫と猫じゃない画像を見るという経験を踏まえ、そこからようやくその境目の特徴を学習するのです。ネットにころがってる画像の中で代表的な猫の画像を何枚か入力しただけでは機械は全く使い物になりません。(これは色々反論が出そうな例ですが)

 

 

 

 

 

 

 

泥臭い経験や大小様々な無駄の中から人間の深みが産まれると私は思っています。

 

 

 

よって、これからもたまに時間を無駄遣いしてブログを書いていくわけです。

 

 

 

 

最後までブログを読んでくださった皆さん、『無駄』な時間の使い方をしましたね。

 

 

 

 

それではまた。