孤独な弧度法

ブログのタイトルは完全に語感だけで決めました。そこそこ良いブログ名だと自分では思っています。

ハードウェアとしてのオタク

アニメ、鉄道、エロゲー、カードゲーム、アイドル、その他諸々……。

 

 

世間から所謂『オタク』という括りで呼ばれがちな趣味を持つ人間は、1度はオタクを辞めようと思ったことはあるのではないだろうか? 

 

『オタクを辞める』という発想は、オタクという性質がいわばソフトウェア的にアンインストールできるという前提にしたものだと思われる。

だが、今までオタクだった人間がすっぱり趣味を断つだけで果たして本当にオタクを辞めることができるのであろうか?

過去の経験と身の回りのオタクの知人などのケースを振り返ってみて私は明らかにそれは不可能だと思う。

 

理由は、オタクという性質は実はハードウェア的な要素の影響が大きいと考えられるからだ。

 

そもそも趣味というものの発現は非常に入り組んでいてケースバイケースだと思われるが、趣味の対象の内容に関する嗜好に基づくものと、その趣味に没入する行為としての嗜好に基づくものの二種類にざっくりと区分することができると思う。

そして前者の気質がソフトウェアとしての趣味であり、後者がハードウェアとしての趣味と本ブログでは定義する。

 

そうすると我々は普段オタク的な趣味について話すときにはその内容、つまりソフトウェア的な部分にばかり注目している。

たとえばアイドルだったらどういうメンバーがいてどういう曲を歌っているか、アニメや漫画だったらどういう題材・ストーリーでどういう作画か、ゲームだったらどういうジャンルでどういう目新しさがあるか……。

 

ここで少し考えてみるとこれらのサブカルチャー趣味の楽しさだって、『その行為を体験している自分』がつねにそこにあるわけで。

でも、インドアなオタク趣味だとどうしてもそうしたハードウェア的な部分が軽く見られているように思われる。本来切り離すことはできないものであるはずなのに、コンテンツの内容にばかり目が向けられ趣味を行っている『自分』を無視して語られることが多いように感じる。

 

趣味がスポーツなどのアウトドア的なものだったら、ハードウェア的な楽しみがメインになってくるはずだ。スポーツの戦略的な部分の楽しさはいったん置いておくとしても、無条件で外で身体を動かすことは楽しい。それは論理に基づくものというよりかは生物としての自分の身体に基づいた快楽のはずだ。

たとえばバーベキューに対して「炎天下で肉焼いて何が楽しいの?」だとか登山に対して「苦労して山に登って降りて何か意味あるの?」だとかを言おうものなら、途端に野暮な人間だと思われるだろう。それらの趣味を好む人はハードウェアとしての、本能的な部分に基づいて楽しんでいるのだ。理論でどうのこうの言える楽しさではない。

そして、これらのアウトドアが嫌いな人も身体的な苦しさが原因で嫌っていることだろう。好きな理由も嫌いな理由も、身体というハードウェアに存在する。シンプルが故に明確に思える。

 

 

一方で、読書やテレビ、音楽鑑賞などの誰かの創作物を介した趣味だと話がややこしくなってくる。

それらの趣味の対象にはコンテンツとしての中身が存在し、それを紐解いて「好き」や「嫌い」を判断する。中身が存在する以上、その良し悪しがどうしてもメインになる。それは身体に基づかない、ソフトウェア的な性質である。

 

オタク趣味は基本的にこのソフトウェア的な性質がクローズアップされることが多い。そして、ソフトウェア的な部分が重要である以上、オタクライクなアニメやアイドルなどの趣味はスッパリと離れることで『オタクを辞める』ことができると思われがちだ。

 

しかし、実際はそう簡単にはいかない。

思っている以上に、オタクとしての趣味というものは身体で楽しむものだからである。

 

クラシック音楽が好きな人が何度もコンサートに行くのに対して、「同じ曲を何回聴いて何が楽しいんですか?」なんて野暮なことを聞く人は(普通)いないだろう。何回も演奏を見るのは、同じ人たちが同じ曲をやっていてもその場その場で演奏が違ってくるからだ。その差を、ライブ感を、五感で楽しむことに醍醐味を感じているのだろう。これは好きな曲・好きな演奏家というソフトウェア的な要素に加えてハードウェア的な楽しみが土台になっている。

 

アイドルだってそうだ。映像コンテンツや音源で見るライブと、実際に足を運んで見るライブには明確な違いがある。

アイドルの場合だと『レス』と呼ばれる反応があったり、コールなどがあったりするので余計に体感することによる快感は強い。握手会などというイベントだとよりはっきり分かるだろう。テレビに出たりしているような女性の手を握り、実際に話すという行為はソフトウェア的な楽しみはほぼない(大抵他愛のない会話であることが多い)がハードウェア的な幸福をオタクに感じさせることだろう。

 

アニメや漫画などの物語だって、我々は結論を知っていても好きな作品は何度も見返すだろう。

それは『面白かった』からだけではなく、見返すことによって新たな発見があったり、或いは最初に見た時の感動を追体験するためだ。この動機はハードウェア的な快感に基づく。

もっと言えば、アニメ等の舞台になった土地を訪れる『聖地巡礼』と呼ばれるような行為がある。これは作品そのものを楽しむという上では、あまり意味のない労力に見合わない行為だろう。だが、それでもそんなことをするオタクが沢山いるのは五感で好きな作品の舞台を感じて、自分自身の体験として刷り込ませたいという気持ちの表れである。

 

インドアと思われがちなオタク趣味も、実はハードウェア的な楽しみが結びついて形成していることが多い。

そのため、『オタクを辞める』となったときにアニメを見るのを辞めたりアイドルのライブを見るのを辞めたりといった行為それ自体では根本的な解決にならない。ソフトウェア的な供給を断って、一見オタク趣味を辞めたように見えても、代わりに身体的な渇望を埋める代替品がなければ、ただ穴が空いただけの人間になってしまうからだ。

 

オタクをずっと長年やってきた人間は何度も何度もオタク趣味の中で快感を得ているうちに性格や自身の嗜好など、いわゆる個性にあたる部分に間違いなく影響を受けている。その趣味により没入するために、身体が時間をかけて最適化されているのだ。

 

オタクから強制的に抜け出すには、オタク趣味の同等以上の快感を得る代替品を見つけるか、或いは好きだった趣味でうんざりするくらい嫌なことを体験するしかない。

たとえば彼女ができたり、好きだった声優が突然結婚したりなどといった出来事がその引き金になりうるだろう*1

 

オタクを辞める原因として多いのは、結局『飽きてしまう』ことだと思われる。

 

長く趣味に没頭する中で刺激がマンネリ化して全てが陳腐に見えてきてしまった結果、自然に興味が損なわれていくケースである。こうなった場合、後には熱意を失った抜け殻が残るだけでより人生的な幸福度が薄れてしまうだろう。オタクからドロップアウトしたところで、次のステージは自動的に迎えに来てはくれないのである。

 

 

我々オタクはオタクを辞めようとするよりは、ハードウェア的な楽しみを得られる趣味を複数持っておき、火に薪をくべていくように色々燃やしていくことが現実的だろう。社会的に思い悩みつつもオタクとして生きることが楽しいのであるなら、それを切ることはハードウェア的に良い選択ではないと思う。

 

 

結局のところ、『オタクを辞める』と言って実際にそのまますんなりオタクを辞められる人間は、最初からオタクじゃなかった人間だけなのである。

 

 

以上で、9連休のラストを飾るブログを終える。

長い休みだったが、何とか目標通り毎日ブログを投稿し続けることができてよかった。

他の目標については達成できていないものも多いわけだが……。

 

 

*1:実際には彼女ができたくらいではオタク趣味を捨てれなかったり、好きなコンテンツを複数持つことによってトレランスを高めてオタクをやり続ける人間がほとんどである。