孤独な弧度法

ブログのタイトルは完全に語感だけで決めました。そこそこ良いブログ名だと自分では思っています。

熱い漫画を読んで、高揚感で心がポカポカしてそれで終わるだけ

この前、魚豊氏の漫画『ひゃくえむ。』Kindleで一気買いした。

kindleで無料で1巻が配信されていて試しに読んでみたら我慢できなくて全部買ってしまった。

 

 

 

俺は最近漫画を電子書籍で買うようにしている。

電子書籍はスペースを取らないしスマホでいつでも読めるから非常に便利だし紙媒体よりいいなと感じる。漫画に関しては俺はそこまで紙媒体であるメリットを感じない。見開きのページがスマホで読むと分割されてしまうところはネックと言えるが。逆に専門書などは紙媒体じゃないとまともに読めない。

 

さて、話を戻して。

このひゃくえむ。は100メートル走を題材にしたスポーツ漫画なんだけどめちゃくちゃ面白かった。

 

心の奥底から熱いマグマが湧き上がってくるかのような感覚。

疾走感。

脳からドバドバ興奮物質が放出している感覚。

 

なんだこれは……。

この漫画の作者の魚豊氏は、登場人物からこみ上げて溢れ出す感情の描写がめちゃくちゃ上手いと思う。読んでると心の奥に眠っていた熱い感覚がこみ上げてどうしようもない気持ちになってしまう。

そして突き動かされるかのようにページをめくってしまう。

そのままあっという間に完結まで読み切ってしまい、余韻に痺れてしばらく動けなくなった。

 

同じ作者の別作品である『チ。 ―地球の運動について―』についても同様だ。

 

 

 

こちらは地動説をテーマにした歴史モノのような漫画になっている。

こっちは普通に今結構有名な漫画なので、皆さんも作品の名前くらいは聞いたことあるんじゃないかと思う。

中世の時代的な背景や、宗教的制約・価値観が支配する世の中で観測と理論に基づいた『異端』な説である地動説に殉ずる登場人物たちは本当にかっこいい。登場人物たちの『正しい』と思うものや『美しい』と思うものを貫く信念に突き動かされて、読んでいるこっちの体内の水分が沸騰したかのような感覚に陥る。

チ。は絶賛連載中なんで続きを追い続けていきたい。そして完結したら最初から最後まで走り抜けるかのように一気に読破すると思う。

 

 

★★★★★

 

 

上記は最近読んだ漫画二つについての例だが、この類のいわゆる『熱い』作品に触れて高揚感を得て熱い気持ちになる。そんな経験はきっと誰にでもあるはずだ。

 

この手の熱い作品を見終えるたびに、俺はいつも高揚感で胸が熱くなる。

 

俺も何かやってやるぜ!という気持ちになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そしてそのまま布団に入る。

 

 

 

そう、高揚感を抱いたままに布団に入って普通に眠ってしまうのだ。

 

熱い漫画を読んで得た高揚感や、感動するアニメやドラマを見た時の『じっとしていられない、何かやらずにはいられない』気持ちはそのまま布団の中を温めるためのエネルギーに変換される。

目覚めた時には、あんなに高揚していた気持ちはすっかり冷めきってコンビニとかで晩飯を買って食いながらアイドル見ていつの間にか寝落ちしてしまう。

熱い作品の力によって俺の心は確かに動かされるんだが、その動いた心がきっかけで身体が動くことがない。

 

漫画だったり、ゲームだったり、映像作品だったり、アーティストのライブだったり……この世にはあらゆるところに心を熱くさせるというか、なんというか、滾らせるモノが沢山ある。それらはきっと創り手が魂を削って世に出した血と汗と涙の結晶なのだろう。素晴らしいことである。

そして俺はそれを思う存分享受してその熱を帯びるのだが、そのまま何にも使わずに消費してしまっているのである。

 

そしてひとしきり熱い作品の迸るエネルギーを堪能しきった後で、「それに比べて俺は今日も何もしなかった……」という情けない自己嫌悪にチクッと胸を刺されることになる。

しかもその自己嫌悪も一瞬で通り過ぎてその後はいつも通りだらだら日常を過ごすだけだ。

 

 

★★★★★

 

 

ここ数年、20代半ばを超えて思うこととしては、昔と違って熱い漫画だとかのエネルギーはそのまま自分が何か行動するための動機にはならなくなってきていると感じている。

昔を思い返してみると高校生の時にライトノベルを滅茶苦茶読んでいたころ、『七人の武器屋』銀盤カレイドスコープに心を揺さぶられて「俺もこんなライトノベル書くぞ!」と駆り立てられて毎日小説を書いて更新していっていた。当時は学校の授業に部活にゲームにと、他にも両立して色々やってたから朝一時間早く起きて創作をしていたりした。

今じゃ考えられないエネルギーだ。あの頃俺は、確かに熱い作品から受けたエネルギーに身体を突き動かされる素直さと体力があったと思う。

 

 

 

 

 

 

今の俺は「これ以上サボったらヤバい」だとか「ここで少し頑張っておいた方が後々楽できそう」だとか、今までの人生経験に基づいた『期待値の高い行動』を選択することがほとんどである。自分が本当に何をしたいかだとか、そういった感情が入り込む余地はないし、現実どの選択肢を選んでも別に大して変わらないことが多い。なので基本的には楽で寝そべったままでいられるような行動を選択する。漫画一冊に突き動かされて人生が変わることはない。

このような行動原理は「作品はあくまで作品で、自分はあくまで自分」という冷静な価値観が身に着いた結果と言えなくもない。

だが、その結果が多少のことではびくともしない怠惰につながっていると思うとなんともやるせない気持ちになってしまう。

俺は熱い創作物を受けて心が熱くなれるアンテナはまだ持ってるんだから、自分からも何かを燃やさないとなという意味不明な焦りに駆られてしまう。

 

そんな今の俺でも、追い詰められた時は火事場の馬鹿力のような動機で自分の中の炎が燃え上がることは知っている(その情動に従って転職したため)。

だが、普段の何気ない日常を過ごしてる時――とりわけやるべきことを総じて後回しにして寝そべっている時に、どれだけ立ち上がって走り出せるか。

そういういい意味での機敏さが大事だし実践していきたいと思った。

俺はまだ燃えているんだぞ、まだ全然全力で走れるんだぞって。

 

 

 

 

……っていうことをひゃくえむ。を読破した後の賢者モードの時にひしひしと感じてしまい、自戒の意味を込めて布団から起き上がってブログとして書き上げた次第である。